平和観音 OMATAS STORY

 この原稿は、1995年6月10日に東村山で行われた、青年会議所東京ブロック会員大会で使用するために書き上げたものです。尚、カットは東村山青年会議所1995年度理事長の町田豊さん(久米川幼稚園園長)が描いたものを使わせていただきました。

空襲  太平洋戦争も後半、アメリカ空軍のB29が連日連夜にわたり、東村山上空を通り過ぎていた。板橋付近の工場と所沢基地を中心とした空爆と、サイパン方面から日本に近づき、富士山を目印にして右に大きく旋回し東京都心部を爆撃して東京湾に逃げるルートに当たっていたからである。いつもの事なので地元住民は「定期便」と呼んでいた。そして空襲警報の度に防空壕に入り、敵機の通り過ぎるのを待っていた。
墜落するB29  1945年4月2日午前3時過ぎ、東村山の上空にいつものように定期便の襲来。空襲警報が発令され、住民達は次々と防空壕に避難した。しかし、気丈にも外に出たままで敵機を睨み付けている一人の男がいた。秋津町に住む小俣権次郎さんである。
 B29の編隊に対し、地上からは激しい対空砲火が行なわれている中、B29は照明弾を落としながら応戦した。夜空を染める戦いが一段落し、防空壕から家に入ろうかとしたとき、凄まじい爆音と共に突然空が明るくなった。見上げると、一機のB29が、火だるまとなって落ちてきた。対空砲火が命中したのだ。機は小俣邸のすぐ前に墜落し、周囲の家の屋根や窓を爆風で吹き飛ばした。午前3時30分ごろの事であった。
墜落現場  墜落の余韻がおさまり空がしらじらとしてきたころ、周囲の人達が集まってきた。そこには直径約40メートルの穴があいており、11名の乗組員をのせたB29は機体も遺骸もばらばらになって地面に突き刺さっていた。機体や遺骸に対し集まってきた人が憎悪の念を燃やしていた。しかし、それは当然のことである。毎夜の定期便によって多くの同胞を失っていたのであるから。しかし小俣さんは、
「仏様になれば、敵も味方もない。」
と、やさしくなだめた。そして観音経を口ずさみながら、手探りで土をほじくり、肉塊をひとつづつ集め始めた。集まった人達も最初の内は見ているだけであったが、小俣さんの姿に心を打たれ、一人二人と小俣さんと共に土を堀りはじめ、やがて、その場にいた全員が遺骸集めに加わったという。
 小俣権次郎さんは元からの観音経信者ではない。観音経を唱えるようになったのは、つらく悲しい過去のためであった。
乞食  明治維新、東京にはたくさんの乞食が徘徊していた。明治5年、ロシア皇帝が来日するさい、体裁が悪いと言うことで、東京の乞食が一個所に集められた。これが東京養育院の始まりである。努力を怠った敗残者を助ける法として賛否両論があり、施設は都内を転々としたが、乞食の中にはたくさんのハンセン氏病患者が混じっていた。当時、伝染病としての認識が薄かったハンセン氏病は遺伝病と勘違いされることが多く、ハンセン氏病患者のいる家系と思われることを恐れて、家を出ざるおえない者も多かったからである。やがて、ハンセン氏病が伝染病として認められ、すでに少数の患者を集めていた目黒の地に、大きな隔離施設を作ろうとしたが、すでに開発の進んでいた目黒での実現は不可能であった。
 次なる候補地は田無。しかし、誘致派と反対派の対決は反対派に軍配が上がり、その次の候補地は清瀬になった。だが、清瀬が候補地からはずれて東村山に決まるのには、たったの数日しか要しなかったという。あまりのスピードに驚き、怒りの念を持った住民は、隣接する東久留米の呼びかけもあり、測量を妨害すべく結集し、 襲う住民 明治42年2月27日午前9時30分、歓声を上げながら検分に来た人間に襲いかかった。多勢に無勢。東京府知事の代理や東村山村長を含む4名は、重傷を負いながらちりじりに逃げた。そのうちの一人を助けたのが、やはり小俣権次郎さんの親戚=小俣家の人間であった。小俣権次郎さんも、身近にその悲惨さを感じていたはずである。そんな、状況からできたのが今の国立多磨全生園なのである。
 これだけではない。明治から昭和にかけての東村山は決して平和な街とは言えなかった。村会議員であった小俣さんは、議会の汚職疑惑に巻き込まれ拘置された。愛する東村山の状況を嘆き、自分自身の境遇に苦しむ小俣さん。そんな苦難の状況から救ってくれたのが、東村山市諏訪町にある徳蔵寺のお坊さんの観音経であった。取り調べが進み、晴れて無実が立証されたとき、小俣さんは拷問の様に自白を迫った取調官に対しても、恨みひとつ言うこともなく晴れ晴れとした顔で釈放されたという。
観音  信仰により苦難を克服した小俣さんにも、戦火は容赦なく降り注ぐ。定期便と呼ばれたB29は本来爆撃地ではない東村山にも誤爆を行う。所沢街道にかかる柳瀬川の橋は誤爆によって落ちた。1945年4月2日、その日、小俣さんは防空壕に入らずに上空を見つめていた。一人の行動が多数を動かしていく。その朝、地域の人で集めた遺骸は、手厚く埋葬された。
農作業  しかし、小俣さんの気持ちはそれだけで充たされることは無かった。いつの日か、この地で、目の前で戦死した11名のアメリカ兵のために観音像をたてる思いを強めていった。小俣さんは息子さんと共に観音像建立のための資金を蓄えるため汗水流して働いた。年月は容赦なく過ぎていく。しかし、思うように資金はたまらず、老齢と高血圧のためついに病の床に伏してしまう。
 周囲が小俣さんの夢の実現のために立ち上がった。木で作られた観音像の原型が出来上がった。目の見えなくなっていた小俣さんは、その型を抱きしめ確認し涙を流し、約1ヶ月後、観音像の完成を待たずして息をひきとった。1960年=昭和35年7月のことであった。
ラッパ  同年、11月27日。B29の墜落したその場所に、平和観音像は建立された。空に向けて高らかにラッパの音を響かせたのはアメリカの軍楽隊であり、たくさんのアメリカ人の見守る中、平和観音の除幕式は行われた。小俣さんのご子息は、戦死した乗組員の故郷=テキサス州に招かれ、保存してあった遺品を遺族に返した。テキサス州だけでなく全米で「オマタズストーリー」は新聞を飾り、国際的な心の触れ合いがあった。小俣さんの長女は国際結婚をしテキサス州に住んでいる。たった1メートルの観音像、飾ることをいやがる小俣さんのご子息の性格のため、決して目立つことなく秋津に住んでいる人でもほとんど知ることのない平和観音。けれども、毎年4月には、アメリカから数名の遺族が訪れるという。
 1945年=昭和20年4月2日、その日、小俣さんは防空壕に入らずに上空を見つめていた。じっとB29をにらみつけていた。そうだろうか。本当にB29をにらみつけていたのだろうか。小俣さんのにらみつけていたのは、戦争その物ではなかったのでは無いだろうか。

 平和観音建立への小俣さんの思いだそうだ。日本では、いや東村山でもほとんど知る者がいない、だが、かけがえのないアメリカと日本の心の架け橋、そして世界平和のシンボル=平和観音。それは、正にこの地、東村山にあり。


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