
猫は写真を撮らない
この原稿は、1989年6月25日の晩に書いた。4日目に当たる28日、猫は網戸の隙間から逃げてしまい、7月6日現在、未だ行方不明である。雌・2才・小柄。背中の毛は焦げ茶色で1本1本が3色に分かれており、腹は白。見かけはブレッキーズのパッケージにそっくり。鈴の付いた赤の首輪と、蚤採り用の緑色の首輪の2本を付けている。名前は「純子」。誰にでも良くなつくが、エンジン音を極端に嫌う。秋津3丁目から新座市野寺5丁目間で迷子になっているものと思われる。見つけてくれた方には十分なお礼をします。もしこの原稿を読んだときに、すでに飼っているのであればそれで結構です。ぜひドーバーフォトまで御連絡ください。ただ、消息が知りたいだけです。
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イントロダクション
佐藤氏はスナックのチーフで、テレビの音楽番組のディレクターであったという経歴もある。結構ひたしかったが、家にお邪魔したのはずいぶん後のことで、「猫がいるから」と、左手をドアの隙間に当てがって戸を開けた。中に入ると、初対面とは思えないほど慣れ慣れしくすりよってきた猫。それがこの日記のヒロイン「ジュンコ」である。
第1話 引越し
「ジュンコつかまえたから来いよ」と佐藤氏から電話があった。その数日前に寿司屋で一緒に飲んだときに、アパートの事情で飼えなくなったことを聞き、近いうちに譲り受けることになっていたのである。とにかく初対面で惚れ込んでいたから、何の準備もできていないのを承知の上で、佐藤氏のアパートへと向かった。1987年9月6日。残暑のきびしい午前中のことであった。
もともとジュンコは、佐藤氏と寿司屋の大場氏によって拾われた迷い猫である。やっと歩けるようになったばかりの頃、二人についてきてしまい、仕方なく飼うことになったのだそうだ。ジュンコという名前は二人の行きつけのスナックのママさんの名前なのだと、その後1年以上にわたって信じさせられていた。ママさんが「順子」と書くからジュンコも「順子」であると認識していた。ところが本当は、飲み友達の「純子」からもらった名前だそうで、面倒なのでカタカナで「ジュンコ」だということにしておく。ジュンコはブレッキーズのパッケージにそっくりで、しっぽが長く動きはすばやい。誰にでも良くなつくが、エンジン音を極度に恐がる。生まれはわからないが、最高の食事で育った。寿司屋の余り物をスナックのチーフが調理していたのだから。当然毛並は最高で、主治医から 「いい毛皮になるなあ」と、言われていた。
トイレは、佐藤氏よりもらってきた段ボール箱を写真の現像バットの中に入れた。餌はガラスの皿を使い、外の景色を見るために網戸を新調し、足場をつくった。その足場に使った画板が佐藤氏の物だったからか、外が見たいからか、そこがジュンコのお気に入りの場所になったようであった。
第2話 ジュンコ外に出る
最低でも2週間、できれば3週間は閉じこめ、常に外の景色を見せて自分の家を覚えさせるように言われていたので、律儀に守っていた。もちろん首輪に紐を付けて外を歩かせたりはしたが、犬と違って猫はなかなか自分から歩こうとはしない。引っ張ればふんばるし、車がくれば引っ張るし(ジュンコはエンジン音が大嫌い)、抱き上げても車がくるとひっ掻くし、とにかく大騒ぎであった。室内では欲求不満になり、日々の生活が格闘技と化し、タンスの上から腹の上に飛び降りられれば、胃袋が口から飛び出しそうになり、噛まれたり引っかかれたりで、私の手足は傷だらけに、布団は血だらけになった。
9月6日に同居を初めて、9月20日。高校時代の演劇部のOB会の飲み会に出かけようとしたとき、ちょうど2週間目であることに気がついた。ジュンコを外に出し、以前から出入口にしようと考えていた流しの上の窓を20センチほど開けて、祈るような気持ちで家を出た。
数時間して帰ってきたとき、ジュンコは私の布団の上に座っていて、一声「ニャー」と鳴いた。
第3話 家出その1
ジュンコが帰ってこなくなった。
埼玉県とはいえ、東京まで2mのところに住んでいたので、朝霞保健所と田無保健所の、両方に行った。
「犬と違って猫は捕獲できないんです。きっと帰って来ますよ」と、どちらも同じ暖かい返事が返ってきた。「きっと帰って来ますよ」の言葉を信じて待っていた。
私の住んでいたアパートは、1階が3Kバス・トイレ付きで37000円。2階は1階の半分で、トイレ付きの2Kで15000円。2件のアパートあわせて実に7部屋52000円の超ボロアパートだった。もともと別々なので、階段は外についていて、目いっぱい占有面積をけちったその階段は、掛け値なしに60度あって、ほとんどハシゴであった。1階は仕事場で、フィルムの上に水などこぼされたりしてはかなわないので、私のいないときジュンコは出入り禁止。ふだんは2階で暮らしていた。60度の階段を駆け上がるときに鳴る鈴の音。そして入口である窓へ130センチもジャンプする時の音。そして「ニャー」と一声。これが帰ってきたときの合図である。それに対し、もらった自転車の(これが実に、酒を飲みに行くためにと飲み屋さんからもらったものだ。感謝。)油の切れた音。スタンドを掛ける音。キーホルダーの音。これがジュンコにとっての、私が帰ってきたという合図である。2階に居れば窓枠に駆け上がって「ニャー」と答え、外に居れば鈴を鳴らし全力で駆け寄ってきて足に頭をこすりつけながら「ウニャン」と。
キーホルダーを振りながら帰るようになって3日目。窓枠に立って「ニャーーー」と答えたジュンコの声は、いつもの数倍も長かった。