あれから1年

 阪神大震災から丁度1年がたちました。避難所で一番活躍しているのが10代の若者達だと知ったときに、1日でも良いから現地に行ってみようと決心しました。けれども実際にスケジュールが取れたのは2日間だけで、結果的には冷やかし程度の人的支援になってしまいました。ですから現地の人の役に立ったとは思っていません。けれども行ってみなければわからない事がたくさんあり、将来の自分に役に立ったことは間違えないようです。2日間に見た光景だけから書いた原稿ですから、偏って書いていることもあるかと思います。
 この原稿はDAUBER1995年2・3・4月号に(関東地区が地震になってからでは遅いので、4月号には2話載せて急いで完結させた)連載したものです。被災した阪神地区の人のためでなく、これからいつか被災する人と、それを助ける人のために掲載しました。 近藤 誠

第1話

 日本中に60000名のメンバーを持つ社団法人日本青年会議所の全体会が年2回ある。そのひとつが1月の後半に行われる京都会議で、国際会議場を中心に約15000名のメンバーが集まる。本年は1月19日から4日間で、ほとんどのメンバーは21・22日に参加する。最終日は国際会議場に集まってその年の日本の代表(会頭という)の所信を聞く事になっているが、その前日までに、それぞれの目的に合わせた小さな会議が多数行われる。
 青年会議所の業種別の集まりの中に、写真屋やビデオ関係などが集まっているビジュアル部会がある。単年度で組織がかわる青年会議所の中にあって、なぜか私は昨年に続いて運営専務(事務屋みたいなもの)をやっている。京都会議が近づくにつれて参加の連絡や委任状が集まってくる。1月15日だったと思うが、兵庫県尼崎の新しいメンバーから電話があった。
「新しく入会した者です。お宅の事は修正のチラシで知っていたんです。京都で逢えるのが楽しみです」
 1月17日朝、撮影現場に向かう車の中で、増え続ける死亡者の数に耳を傾けていた。
「100名は越えるな」
夜12時を過ぎた頃、店の電話がなった。ビジュアル部会の京都のメンバーからだった。
「京都会議は中止になりました」
「田村さんの情報はわかりませんか」
「全然、電話も通じまへん」
私も朝からずっと電話を掛け続けていた。ビジュアル部会の部会長は西宮の人なのだ。翌日、愛知県豊田のメンバーから電話があり、会頭のご子息が亡くなられた事と救援物資が集められている事を知った。ビジュアル部会のメンバーに連続ファクスを流したが、兵庫県と近隣のメンバーへの連絡はことごとくはねつけられた。医療部会・建設部会・米穀部会等では次々と救援の動きあるらしいが、いくら考えても写真屋ができる事は浮かばなかった。なんと生活に不必要な業種である事か。悔しかった。
 部会長が無事である事を含む情報が間接的に伝えられたが、部会長と話しができたのはビジュアル部会の総会が予定されていた日の前日だった。 「わしは無事やけど、みんな京都まで来られるやろか」
「田村さん京都会議の中止知らないの?」
「なんや、さよか。情報なんかなんも入らん」
総会の当日、尼崎の先輩から電話が入った。
「悪いな。わし、行かれへんようになってな」
「京都会議、中止になったんですよ」
「なんや、そうか。ちーとも知らんかった」
「ファクスもなかなか着かなくて」
「おー、ひっくり返ったファクスからでとったで」
「でも、無事で良かったですね」
「家は平気やけど前の家はつぶれたとった。息子、タンスの下敷きで3針縫って入院しとるは」
「テレビで見て驚きましたよ」
「テレビ?あんなもん半分も伝えとらへん。近藤君ゆとりあったら見に来てみー」
「見に来てみー」とは恐れ入ったが、後になって、30時間ぶりに瓦礫から出てきた人でもカメラに向かってギャグをやるのが関西人の習性で、とてもテレビには流せないという話を聞いた。
 東村山市青年会議所を通じて人的支援の依頼が来た。組織的に動いているので2月後半までの参加依頼日のリストが来ている。今、日程調整中。
「見に来てみー」
の言葉の裏には、もしかしたら「見に来れなんだったら、ごちゃごちゃ言うな」という意味が含まれているのかもしれない。行ってきたら続きを書きます。


行って来ます

 日程調整に時間がかかってしまいました。今、2月22日の昼です。23・24日に西宮で活動することになり、さっき深夜バスの切符を買ってきました。新宿発22:20分のバスで向かいます。
「田村さん、明日の朝、7:30分に西宮に入ります」
「なんや、来るんか。7:30分か。そんならその時間に行くは。2人来るんやな。そんなら家に泊まれや」
「そういえば田村さんの家、新築だったですよね」
「そやから助かったんや」
田村さんの声は随分と元気になっていました。
「そやけど近藤君な、がっかりせんといてな」
2月の初旬から仲間が何人も現地入りしているので、報告は聞いています。「がっかりせんといてな」の理由も知っています。この辺は3月号以降の本文中に書きます。何はともあれ現地に行って来ます。


第2話

「はーい、もしもし」
「田村さん、声が元気になりましたね」
「ん、まーな」
「明日の朝、西宮入りします」
「なんや来るんか、なら家に泊まれや」
「田村さんの家、建て替えたばかりですよね」
「そや、だから助かったんや。そやけど近藤君な、来てもがっかりせえへんといてや」
2月22日の会話。仲間が何人か現地から帰ってきているので「がっかりせえへんといてや」の理由もわかっている。
 夜、その日撮影を手伝ってくれた村上カメラマンの車で新宿へ向かった。前から一回寄ってみようと言っていたションベン横町でヤキトリとラーメンを食べる。10人も入れない小さな店が狭い通路の両側に並んでいて、店の奥には梯子に近いほどの急な階段が2階にのびている。住んでいるのだろうか。おそらく戦後のどさくさに出来た物なのだろう。
「大震災が来たら無くなっちゃって、2度と復活なんかしないんだろうね」
 新宿発の大阪行きの深夜バスの切符を、ごねにごねまくってコピーをしてもい半分切られたものをもらった。2月22日22時20分発22番の券だったのである。
 倒壊した建物を見ながら西宮商工会議所につくと入り口の上の2階部分が落ちて入り口を塞いでいた。裏口から入り西宮青年会議所事務局に着くと、同じ東村山の磯田君がうろたえていた。
「こんちゃん。東京ブロック、一昨日の夜に撤退したんだってさ」
「そんなの聞いてないよ」
奥から田村君が出てきて色々説明してくれたけど、現地の状況なんて何にもわからないから、田村君の車でそれまで東京ブロックのメンバーが活動していた今津体育館につれていってもらい 千葉と山梨ブロックのメンバーに合流した。途中、バスが宙づりになった場所を見せてもらった。高速道路が落ちているのだから、中心地から若干はずれているとは言っても相当な揺れだったのだと思うが、家屋の倒壊は古い家を中心に起こっており、火災の延焼もなかった地域なので、新興住宅地では道路のひびさえなければ通常と同じだった。 ただ、地盤は間違えなく沈んでおり、しっかりとパイルの打ち込まれている建物は30センチも浮いていた。「隣の幼稚園はなんともない」と言っている人もいたが、それは基礎工事にパイルを打っていないから地面と一緒に落ちただけだ。
 今津体育館の仕事は後方支援部隊。全国から寄せられた支援物資は体育館5つ分もあり、これを配送する作業である。震災から約40日。この間にさまざまなドラマがあった。無料になったユーパックで全国から一斉に物資が寄せられた。もちろん最初の内はその中の物で随分と助けられたのだと思う。しかし、あまりに量が多く、その物資を分ける人出も全く確保できなかった。その物資の有効活用を市役所は西宮青年会議所に依頼し、全国の青年会議所の中から関東地区が西宮の担当になった。2月の上旬に行ったメンバーの話だと、その当時ですでにたくさんのボランティアが活動しており充分な連携がとれていないため、各家庭にご用聞きに行くと「いい加減にしてよ、これで4回目じゃないの」と怒られることもあったという。 下着類をサイズ・性別で分けて公園で配ると、列をなすのは十分に普通の生活をしている家庭の人ばかりで、実際に困っている人は並んでいない。要するにスーパーで買うと有料だがただだからと並ぶらしい。持っていってサイズが合わないと道ばたに捨ててしまう。古着なんか誰も持っていかないそうだ。
 その後、目的別に持っていってもらえば無駄がないだろうと、品目別に配ろうとすると地元の商店の営業妨害になってしまい、まちの復興にブレーキをかけてしまう。しかし、寄せられた物資は紛れもなく日本中の人の善意で寄せられた品物ばかり。西宮青年会議所は考えた末、「品物ではなく善意を分け合おう」という観点で新しい動きを開始した。


第3話

 善意の袋のリレー作戦は、有り余る物資を効率よく問題なく消化するには特効薬だった。物資の中から消耗品でサイズの心配が無く、長期保存のきくものを紙袋に詰める。ティッシュ・石鹸・歯ブラシ・ごみ袋などだ。これを西宮市内に全戸配布する。不在でも玄関前においてくるので、スピーディーに進む。もちろん中には主旨を書いた紙が入れられている。しかし、一般の人から寄せられた物資は、残念ながらほとんど活用できない。活用されるのは企業から寄せられた物資だけだ。1つの箱の中に古着・食器・毛布などと混ざって入っていては分類するのに手間がかかる。企業からの物資だけで十分足りているので手がつかないのだ。
 その日に必要な物資が市内の別の体育館からトラックで運ばれてくる。このトラックも埼玉や千葉からきているものだ。まずこの荷物を2階にあげる。1階のフロアーは荷物でいっぱいだからだ。階段にずらり並んでリレーする。10時になると地元の主婦ボランティアが集まってくる。毎日違う人が来るので、ゼロから説明する。初日は私も新人なので聞かれても解らないが、青年会議所のメンバーもせいぜい2〜3日だから、1日目には新人でも2日目で中堅になり3日いる人はリーダーになってしまう。袋の上部をガムテープで止め、5〜6個ごとに段ボールにまとめる。これがまとまると出荷する。 2階に上げるときは人間のリレーだが、降ろすときはすのこでスロープをつくって滑らせる。1〜2秒に1個の猛スピードだ。  昼にはちゃんと昼休みをとる。すぐ近くにスーパーがあるので食事には不便しない。天気が良かったので地震で出来た段差に腰掛けて和気あいあいである。青年会議所メンバーの妹だという女の子が携帯電話で兄と話している
「青年会議所の人って日本中同じなんだね」
 夕方から仮設住宅に物資を運び入れる作業に入った。102件のうち24軒の鍵を受け持つ。電熱カーペット・時計・生活用の小物・毛布が2枚、そして善意の袋。これがワンセットだが、物資として寄せられたのは善意の袋と毛布だけで、あとは新品を買ったものだ。不公平になると問題が起こると言うが、実際はどんなものか。毛布は一般の人から寄せられたものだから色々混ざっている。毛布を入れた箱に 「がんばって!」などとかかれたものもある。普段自分の部屋も片づけない私だが、いったん入り口に置かれた物を点検しながら中に入れてきちっと一所にまとめて鍵を閉める。港が近くにあって大学か何かのグラウンドの空きスペースにたてられた102件の仮設住宅。15〜17棟の荷物を入れたのは私です。
 帰り道は途中で先導車を見失って西宮市内をぐるぐる廻らされる。先導車に乗った青年会議所メンバーの妹という女の子にしっかりと道が全く判らないことを言ってあったのに。
「後で殴ってやろう」
等と言いながらも2トン車を運転して市内めぐりを楽しむ。古い町並みにはいると見事につぶれた家が多い。商工会議所会館にたどり着くと、先導者のメンバーがニヤニヤ笑っていた。
「ばっかやろう。道ぜんぜんわかんねーって言っただろ」
 居酒屋で夕食をとろうと磯田君と歩き回る。駅の回りの雑居ビルは古い建物ばかりで、ほとんど営業していない。なぜかパチンコ屋さんだけは元気に営業していた。かろうじてアーケード街の一軒に営業している居酒屋があり、入ろうとすると入り口の外に臨時の調理場がつくられている、本来の調理場が崩れているのだ。関西では「関東だき(かんとだき)」と呼ばれるおでんを食べる。
「すいません、タバコ置いてますか」
と磯田君が店に訪ねると、カウンターで呑んでいた人がくれた。
「おれ、被災者に恵んでもらっちゃったよ」
歩道で営業している屋台のラーメン屋さんに立ち寄り、商工会議所会館に戻った。


第4話

 商工会議所会館の前に東京のメンバーが2人いた。「あっ、いたいた、コンちゃん、芦屋にもいないし、ここには東京のメンバー来ていないって聞いたから、どこ行ったんだろうって心配していたんだよ」
「完全に千葉のメンバーとして動いていたから」
「どうする?これから芦屋に一緒に行く?」
「せっかく1日一緒に活動したメンバーだからここに残るよ」
部屋に戻ると、一同はこたつに入って大宴会になっていた。みんな完全にできあがった状態で全然先に進まない自己紹介をした。東京は我々2人だけで(2日前に撤退して芦屋に移動したのだから当然だが)後は千葉と愛知県豊田のメンバーだった。泥だらけで汗臭い体を無理矢理こたつにねじ込んで馬鹿騒ぎをした。豊田にはビジュアル部会のメンバーで稲垣という知り合いがいる事を告げると、あきれた事に12時すぎなのに電話をかけてしまった。そいつらが後にぼろくそ文句を言われた事は言うまでもない。可愛い小さな紅一点は平岡キミエちゃんと言って、驚いた事に競艇の選手だった。「3月4日から是正(東京の競艇場)だから買ってね」
1時過ぎ、転がっている毛布にくるまって眠った。
 午前中は前日と同じ今津体育館で善意の袋を作った。昨日は新人だったが今日は私も中堅だ。あと1日で全戸配布も終了するそうだが、それでも残っている体育館5杯分の物資はどうなるのだろう。午後は、古着の体育館と仮設住宅の2班に別れてトラックが走った。私は仮設住宅組になった。現地につくとトランシーバーを持ったやつがゲラゲラ笑っていた。
「古着の体育館すごいらしいよ、無線を傍受したら『どれから積んだらいいんだ?』『かたっぱしから持ってこい!』なんて会話してたから」
 仮設住宅の鍵が締まっていた。市役所に電話したら手違いで鍵を配ってしまったと言う。確かに3軒ほど入居していた。「入り口に置いて言っていいか」と言うと、待っていてくれと言われた。40分後に来た市役所職員は予想に反して大変腰が低く、報道でバッシングされている事が可愛そうになった。
「申し訳有りませんが、別の所に運んで下さい。100%確実に盗まれます。カーペットが1本4万円ですから、いい商売になるんです。市役所の駐車場からもずいぶん盗まれました。」運び出しているのもボランティアでまちまちのコスチュームだから、誰が持って行ってもわからないのだろう。すでに入居している3軒だけ荷物を下ろした。 3軒とも深々と頭を下げてくれた。私は、メンバーに分かれを告げて近くの駅から帰路についた。
 数日後、田村君と電話で話した。
「何で近藤君、避難所見てくれなんだ。ひどいもんやで。帰れても帰らん者もぎょうさんおって『なんや、またうどんか、そろそろ焼き肉でも食わせいな』なんて言う者もおるんや。ルンペン3日やったらやめられん言う状態や」
 長田区に行ったメンバーと話した。
「長田区でもそうです。報道は建物の崩れたところしか写しません。焼け落ちたところからカメラが振り向いたら西宮が写っていたなんて言うニュースも見つけました」
 3月23日、中止になった京都会議のかわりのビジュアル部会会議が名古屋で行われ、部会長の田村君も豊田の稲垣君も大阪で報道の仕事をしている者も来た。
「編集していると涙が止まらなくなるような映像もあります。けれどもどこの放送局も使ってくれませんでした」
 報道は、情景描写を誇張して心理描写を減衰させる傾向があるらしい。けれども考えてみれば、私も情景描写を文章にするのは得意だが心理描写は苦手だ。言葉、文章、写真、動画と伝達メディアは進歩しても、心理描写を伝えるのには技術の進歩の他に勇気も必要らしく、限界範囲も小さなものらしい。
 最後に田村君の言った言葉が強烈だった。
「あの荷物な、西宮では2次災害って言っとるんや」
 阪神大震災報道をはねつけるようにサリン事件が起こった。それ以前からも報道は阪神から離れつつあった。
「近藤君な、面白いで、物資の箱開けるとな2〜3日前のニュースでなに言ったかようわかる。誰かが『下着が欲しい』言うたら下着ばっかりくる。物資の積み重なりは報道の歴史を凝縮しとるんや」
西宮に行ったときの田村君の言葉だ。
「今はいいけど、ボランティアは興味もあって来てるんだろうから、瓦礫が片づけられた後、人数が確保できるんだろうか」 という私の言葉に
「俺もそう。崩れた家を見に来たんだ」
と言った正直者もいた。報道が離れ瓦礫も片づけられた阪神に、2次災害と言われた物資の後かたづけも含めて、必要なボランティアは確保できるのだろうか。
 たったの2日、何もわかったはずがない。それでも書くべき事が次から次ぎへと浮かんでくる。当たり前だ、お得意のデジタル写真を使って考えれば、9センチ×13センチのL判の写真一枚を表現するデーターの量は文章にして400万文字分も有るんだ。それが2日間も続けばどうやったって文章では伝えられない。けれども経験は確実に身についている。
 2月22日、西宮に行く前日に田村君に言われた。
「がっかりせえへんとてや。ボランティアに来たら、涙流してくれると思ったらあかんで」
そのつもりだったから、がっかりはしなかった。怒りも感じなかった。
 阪神大震災が起こったときに、世界各国から救援隊の協力連絡が来た。そして活躍した。それらは勿論日本を助けるための援助だが、日本を助ける事によって自国で同じ事が起こったときの訓練にもなっているのだそうだ。そう思えばいい。もし東京で大震災が起こったときの、いや、ほとんど近い将来起こるであろう関東平成大震災の時の訓練に行ったんだ。後方支援部隊だから埋もれた人を助け出す事や、同時多発火災の延焼をくい止める事や、避難所に均等に食料を配給する事や、けが人に応急手当をする事や、善意の袋を全戸配布する事は練習していないけれど、慢性的物余りの日本では確実に不要な物資も集まるから、100%確実に捨てなくてはならないほどのゴミが集まるから、そんな2次災害の処理の部分では活躍できると思う。東京の東村山地区に集まった全国からの善意がこもった、でも、ちょっと胸やけがしそうな物資の処理には、東村山市青葉町の生意気な写真屋がきっとお役にたちます。2日間の兵庫県でのボランティア活動はそのための練習だったのですから。


あれから1年 追加掲載

 阪神大震災から丁度1年目の日に「写真屋の見た阪神大震災」を掲載して2日後の1月19日。昨年は中止になった京都会議に出席の際に、西宮の田村君の家に泊まることになりました。以下はその時のタクシー運転手との会話です。

......1年前を思い出していた。「このへんじゃ無いのかな。港のそばでナイター設備の有るグラウンドの隣の空き地の仮設住宅で、鍵の担当だったんだ」そう田村君に話したとき、運転手が話しかけてきた。
「今でも非難所におる人。あれは甘え過ぎですな」
「えっ!」
「学校の教室を1つの家族で使っているやつもおるんですは。私も神戸ですから仮設に住んでおりますが、あんなもん人が起こしたんじゃなく天から来たもんやから、役所に文句なんか言ったってしょうがないんですは」
なんだか嬉しくなった。1年前に行って原稿にまとめた「写真屋が見た阪神大震災」はたった2日間という短い間に感じたことだったので、偏った見方をしている可能性を考慮しつつホームページに掲載したのだが、それほど偏っていなかったらしい。報道は今でも仮設住宅の整備に問題があることを訴え続けているが、地元の人はわがままを言っている人に的を絞っているのだ。「勤め先が遠くって仮設住宅に住めない」という事が最も強く言われているが、東京では通勤1時間〜2時間が当たり前なのだから、それを考えれば通える仮設住宅が無いわけがない。運転手は続けた。
「仮設住宅死なんて言ってますが、普通の家だって死ぬときは死ぬんです」
被災者自らの言葉は、シビアで曇り無く、そして力強い。どこかをバッシングしないと形にならない報道のゆがみを感じた。
(ドーバーフォトホームページ「デジタルオヤジ」より抜粋)

以下の文章は、アメリカからホームページを見てくれた方からのものです。

 ......こう言う言い方をするのは良く無いのですが、あまりにマスコミが震災を大きく報道しすぎたせいか実際に現場を目にしていない僕のような人間でも震災の実態をわかったような気になっていました。

 報道価値と真実性を秤に掛けて、報道価値が重たいのが報道の宿命の様です。「ニュースが面白くないのは、面白いニュースが無いからではなくマスコミが悪いからだ」筒井康隆が白黒テレビの時代にSF小説の中に盛り込んだ言葉です。その小説の時代背景はここ数年あたりだったと思います。
 爆弾製造法が載っていたり猥褻写真の問題で逮捕者が出たりと、暗いことがピックアップされているインターネットですが、マスコミ報道ではわからない真実の情報が流れる為のメディアとして機能して欲しいと思うこの頃です。