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大島や神津島には何度も行っているので、そのつもりでいたら小笠原行きはまったく違って、一人一人の場所が指定されていた。電車のB寝台ぐらいの幅しかなく、三島君なんかアウシュビッツだなんて言っている。
夕方になってカメラバックを引っさげてデッキにあがる。ネットで調べたら、日の入りが八丈島あたりだと聞いていたのだ。デッキの三島君を捕まえたが、「この日の入りで絵になりますか?」というとおり、まったく絵にならない。一応日の入りを見て戻ろうと思ったが、反対側の空に稲光。写るかどうかは別にして、しばらくカメラを構えた。
8月8日、予想通りの二日酔いで目覚め。時間はたっぷりあるので何度も寝直すが不快感は去らない。やがて船内アナウンスで予定より50分早く到着すると知らされる。小笠原諸島最北端尾婿島を通り過ぎてからまだしばらくかかる。本土から離れているから地図上では近く見えるが、船上から前後に島が見えるということはない。
昨日と変わらず船内アナウンスは年中かかり、今度は忘れ物は小笠原警察に届けるぞとか、帰りはもっと混むから、有料でも宅急便を使うようにと脅している。日焼けに関する注意もかなりうるさく言っていたが、これは親切のようだ。到着時刻になって階段に並ぶと、人の息で空気が悪くなる。一刻も早く出たいところ。もう苦しくて限界というときにやと列が動き出す。
小笠原の太陽は噂通りの強烈な物だが、決して暑苦しいことはない。空気が澄んでいるせいかさわやかだ。紙に「小笠原村商工会」と書いて持っていてくれたのですぐに合流。挨拶と名刺交換。もらった名刺を見ていると、くらくらするぐらい眩しい。車で商工会館まで送ってもらう。
近くの中華料理屋さんで昼食をとる。島の宣伝ポスターに、「亜熱帯の東京」という言葉が小さく使われていた。この言葉を大きくコピーに使ったほうが効き目があるような気がした。生えている樹木は明らかに亜熱帯の物で、トックリヤシとトックリヤシモドキの区別がついてしまうのは、一昨日のフラワーパークのたまもの。
中華料理屋を出て前部長の会社に行く。前部長は建築屋さんで、以前賀詞交歓だかで話をしたことが有る。そのときに小笠原は最低5日はかかると言われたので、おいそれとは遊びにいけないなと思ったものだ。むこうも僕の事を覚えていてくれて、当時は難しかったインターネットも問題無く接続できることを聞いた。それが分かっただけでも僕の仕事は半分おしまいだ。
商工会でも会社でも、カレンダーにはすべて「入」と「出」の印が入っている。島の生活サイクルは、すべて船のスケジュールで動いているのだ。
戻る途中で、帽子やサングラスを買う。僕はそのまま女性へのお土産になりそうな帽子を買ったが(その店にはそれしか無かったんだ)峯岸君は別の店で似合う帽子を買い、見事に西田敏行そのものになった。商工会館まで戻る途中、グレ電を見つけてしまった。なかなか環境は良い。
事務局の女性職員の車でホテルまで送ってもらう。扇湾に面したホテルホライズンは小笠原諸島最高のホテルで、かといって緊張しなくてはならないということもない。天皇陛下が来たときに泊ったというが、フロントを通らず部屋まで戻るルートも用意されている気楽なホテルだ。
すぐに事務局長から電話があって、海水浴場まで案内するという。予想より遥かに険しい上り下りの道を車に揺られて少し行くと、路上に車がたくさん止まっている。「今日は混んでいるな」と事務局員は言うが、広々とした白い砂浜に20〜30人といったところ。水温は暖かく遠浅で、子供でも安心だ。噴火した火山島ではなく火山性の隆起による島だから、がけの模様は層になっておらず、なぜかうろこ状。
僕は眼鏡をかけているので水中眼鏡は無理かとあきらめていたら、度付きのゴーグルがあるという。狂喜乱舞して借り、魚のたくさんいる岩場に向かう。目の前を熱帯魚が泳ぐので夢中になってしまう。峯岸君がこれ何だろうというので行ってみると、大きなシャコ貝の口だった。これは危ないから慌てて離れる。
水から上がり際、小指から血が流れているのに気が付く。どうやら岩場で切ったらしい。止血しながら上がると、足も2個所切っていることがわかる。後半は仕方なく日向ぼっこと貝拾い。これもなかなかほのぼのして良い。
「あのがけの下のへこみは、みんなトーチカですよ。島中に戦争の跡はありますから」
と、事務局長が言っていたが、帰りがけに見ると、がけの中腹にも四角い窓らしき穴が開いていた。
ホテルに戻ってシャワーを浴び、休んでいたら血が再び出て、シーツの染み抜き。洗濯もすませて一休み。部屋の電話が2線式なのでネットにつないでみようとしたが、残念ながらつながらなかった。特例措置で東京03だけは3分10円なので使ってみたかったのだが。
尾長鯛を中央に配置した見事な刺し盛りが最初に出たので、すかさず日本酒を頼む。サラダ・スープ・茶碗蒸しと続き、島寿司で腹は一段落。しかしその後、ステーキ・ライス・デザートでやっと終了。和洋の2コース分食べた気がする。
オーナーがもと婦人部長なので共通の話題がある峯岸君が話し込み、僕と三島君は部屋に戻る。少しすると峯岸君も戻ってくる。
「静かな方が良いと思って、無料でもう1部屋借りたから、コンチャン別の部屋ね」
はいはい、酒を飲んだ私は、いびきがうるさいで御座いますよ。
8時に予定通り迎えが来る。街のはずれの山のしたにあるイルミネーションの見事なパブブーゲンは、まるで龍宮城。観光客はあまり来ないというその店は、女の子がみんな飯島愛。徐々に焼けた肌だから、むらが無く奇麗だ。みんな千葉・神奈川・東京23区あたりの娘達で、いちおう夏のバイトのつもりが、いすわりそうだというのもいる。
しばらく呑んだら、ラーメンを食べに行こうという。もう食べ物はいらないと言ったら、どうもラーメンというのは暗号らしい。確かにラーメンの提灯は出ているが、そこも女の子のいるお店。やっぱり飯島愛ばっかり。しこたま飲んでカラオケも歌って、タクシーで帰った。島のほんの一部の、見える距離なのに、タクシー料金は2000円以上。思ったより遠いのだね。
8月9日、朝食はあっさりしたおかずなので、茶碗に3杯も食べてしまった。10時までのんびりとすごし、ホテルの車で小港まで送ってもらう。丁度準備が始まっていたので、荷物はこびや会場設営を少しだけ手伝う。青年部員だけでなく手伝っている女性の力もたいしたものだ。
恒例となっているビーチバレーボール大会だが、いつのまにか僕は受け付けに座っていた。
「ルールはどうなんですか」
「男女の混合はどうしましょう」
など、次々聞かれるが、勿論何もわからない。実行委員長の岡野君に回していく。一番驚いたのは、女性3名のチーム。
「こちらにチーム名と参加者3名のお名前をお願いします」
と受け付け票を渡したら、
「ねえ、名字なんていうの?」
と、お互いの名前を確認していた。船の中か島に来てから知り合ったメンバーらしい。
ものものしいセレモニーが有る訳ではなく、二つのコートを使って、のんびりペースで試合は進んでいく。青年部の人数は少ないが、負けたチームが採点係をやったり、島の女の子が手伝ったりなど、特にせわしくしている様子はない。最初から手伝っている女性、そして後から後から来る女性は見覚えの有る顔。昨日のパブの女の子達なのだ。
エントリーされたのは48チーム合計100名。数試合目に三島・峯岸のペアが試合に臨む。最初は快調に飛ばして、11点マッチで9対6まで持っていったが、あっという間に逆転されて一回戦負け。順調に進めば事務局の永須君や僕も出ようかと思っていたが、見事に見学のみになった。予定より約1時間遅れて試合は終了。女性の部の優勝は、何と地元のママさんチームだった。
JAMINN98というお祭りが有るので、夕食は取らずに浜に出る。近くのお店でビールを飲みながら食べていると、岡村君の奥さんも働いていて、食事を出してくれる女性もビーチバレーに出た人。そんな様子を見ると島の小ささが実感できる。予定のメンバーが揃って会場へ。
バンドの演奏やにわか寅さんによるバナナのたたき売り。そして僕たちが見た出し物はハワイアンダンス。最初の原住民、咸臨丸から始まる日本人の上陸。太平洋戦争でのアメリカ植民地化。さまざまな人種が入り交じった小笠原では、ハワイアンも地元の音楽なのかもしれない。
「今日のお礼っていうことで行きましょうよ。理由が無いと、そうそう行きにくいしね」
事務局のウッチャンが言うので、100%賛成でパブブーゲンに行く。もう女の子達も顔見知りだから気楽なもの。
三島君はホテルまで6キロの道のりを走ってかえるという。僕ものんびり歩くと言ったが、やめとけ、とタクシーに押し込まれてしまった。運転手は昨日と同じ人で、実はタクシー会社の社長さん。三島君がどしゃ降りの中を帰ってきたと聞いたのは、翌日の事だった。
8月10日、今日のお迎えは早く8時半。岡田真澄似のスタンリー船長のあやつる船はピンク色の2階建て。8時50分に出港して湾を出るとイルカのポイントだ。数席の船の合間を、たくさんのイルカたちが泳いでいる。30分以上の大盤振る舞いでイルカを堪能。
ルートを反転して父島の沿岸を眺めながら南島に船は進む。海底はさんごから白砂にかわり、海の色は群青から眩いばかりのセルリアンブルーに変わる。水の透明と砂の白、そして太陽光線から、なぜこれほど彩度の高い色が作り出されるのか神秘ですらある。
狭い岩礁を通り抜け、船は南島の湾にはいる。お世辞にも歩きやすいとは言えない岸壁に船は着いて、触るのも痛いほどの溶岩地形を這うようにして登っていく。小さな紫色の花の咲く砂の峠を越えると、眼下に広がるのは岩と海が作った奇跡の造形。岩にあいた穴から怒涛のように押し寄せる海水が、扇型のプールを作っている。
扇の円弧付近は浅い岩盤で、中ほどから深い砂になる。30センチほどの魚が足元を泳ぎ、一昨日の度付きゴーグルを借りてこなかったことを悔やむ。陸から来た人間と海から来た魚の交わる、境界線の楽園。
「都青連は、島嶼に6つの単会を持つ、恵まれた連合体である」
そんな考えが起こってきた。
来たルートを逆に走りイルカのポイントを超え、船は兄島につく。さび付いた鉄の桟橋が残っており、海中にも浜にも鉄製の残骸があるのは、ここが鯨の解体所だったからだとか。弁当を食べるという用事以外何も無く、食べてからはひたすら時間を過ごすことになる。何も無いというのも、また良いものだ。そそり立ったがけに囲まれた小さな土地で、崖のなかほどには多数のヤギがいて、人間を見下ろしている。アメリカ人が持ち込み、野性化したのだそうだ。今では島民の数より多いとか。人間ではそう簡単に上り下りできない崖をほいほい歩いている姿を見ると、ヤギもカモシカと同じなのだなと妙に納得。
食事の間に波が高くなり、船の接岸がとけてしまう。3度の接岸でやっと全員が乗り込み、キャベツビーチへ。兄島・父島の間を仕切る幅500メートルの海峡は、見事な珊瑚地帯で海中公園ともなっている。ゆっくりと進む船の中央にあるガラスの部分が力を発揮し、珊瑚の合間を泳ぐ熱帯魚の姿を満喫できる。兄島側のキャベツビーチから父島側へと移動し、船長の合図でつぎつぎ水の中に入る。やはり度付きゴーグルが無いので、船底のガラス窓から底を見ていた。が、丁度ガラスの下に来るように餌をつるしてくれたので、集まる魚は多数。本来の島寿司の材料の魚を中心に、中には1メートルもある鯛までやってくる。
「ああいう、ここ特有の魚を食べたいですね」
「民宿が買ってくれれば漁師だってとるし、俺らだって途中で釣っていったっていいんだよ」
船長の言葉の意味はあまり理解できなかった。時折子供が上がってくる。母親が説教していた。
「もう止めなさい。風邪引いちゃうでしょ」
船長が母親を怒った。
「何言っているんだよ。子供は大丈夫だよ。過保護にしちゃだめなんだ。顔色が悪くなったって唇が紫色になったって。大人とは違うんだよ。海だって奇麗だから身体なんか壊さないぞ」
天晴れ!
いよいよ波が高くなっているから、来たときよりゆれるという船長の注意で出港。なるほどゆれは半端ではなく、左右・前後のゆれはともかくとして、落ちるのだけは何とかして欲しい。船底のガラスが割れるのではないかと思えてしまう。湾に入ると波はなくなり、無事入港。お土産屋によると、去年のポスターが貼って有る。大きな鯨の後ろ姿だけの写真に、小さく「ストレスって何ですか」と書かれてあり、これに感動。
今夜の懇親会は、商工会長も青年部部長も合流してくれる。ダイビングスクールのオーナーでもある青年部部長は一年でも一番忙しい時期。少ない言葉で的確に小笠原の実態を伝えてくれる。日野市生まれで峯岸君と話しがあい、同年代の情報のぶつけ合い。昼間頼んでおいた、ウミガメの刺身と煮込みはなかなか美味だが、下手物(とは思わないが)が苦手の峯岸君は味わった程度。
「どうして、これだけ魚がたくさんいて漁業がもっと盛んにならないのでしょうか?」
「持っていく手段がないのですよ。船には水と海水の水道が着いているのですけれど、数十センチもの伊勢エビに海水をかけながら運んだことがあるんです。ところが大島あたりら先は海水が汚くて死んでしまうんですよ」
と、事務局長。巣別れの直には吹雪のように舞うという白蟻の話。それを食べて育ったカエル達を筑波に輸出しているという話。なにもかも、来て聴いてみなければわからないものだ。三島君は今日も走ってかえった。
どうもホテルのベッドというのは苦手で、初日はそのまま上に寝てしまったが、昨日は何となく隙間に入り込んだ。で、最終日はいらいらして、セットされているベッドの上の布団だかシーツだか、それらを全てひっぺがして勝手に組み直した。僕は冬でも足を出して寝たいのだ。格調高いホテルになればなるほどこの形式だけれど、ベッドの上に通常の掛け布団を乗せておいてくれた方が、よっぽど使いやすい。僕は未だに正確な使い方を知らない。ホテルホライズンは紛れもなく小笠原最高のホテルで、数年前には天皇陛下も泊まっているのだが、天皇陛下の時は、もしかしたら畳に布団だったのではないかしら。日本人なら絶対その方が寝やすい。天皇は日本の象徴だから、もちろん布団の方が喜んだろう。勝手な推測だが。
8月11日最終日、小笠原丸の出港は2時。商工会事務局で電話回線を借りてインターネットにつないでみる。ホテルの電話の外線発信で何度もトライしてみたが、どうしてもコネクト出来なかったのだ。外線という事情のためだと思っていたが、商工会の回線でもつながらない。散々いじっていたら、事務局長が気が付いたように話し掛けた。
「島で最初にやったときも、どうしてもつながらなくて、NECやNTT職員も頭をひねっていたよ。それで、ちょっとした事らしいんだけれど、インターネットをやりたい人を島中から集めて説明会を開いていた」
その言葉を聞いて合点がいった。小笠原の電話は衛星経由で、まるで国際電話のような遅れが有る。通常の設定では、ハンドシェイクが成り立たないのだ。これまた、来てみないとわからない実態を知る。しかし、だとするとグレー電話も使えないということになるな。あのグレ電は、トマソンか?
午前中には島内を車で回ってもらったが見事にどしゃ降り。美しい自然の中に点在する戦争の傷痕を見た。島の形が変わったとも言われる最も悲惨だった硫黄島の戦いも、この小笠原から司令が発せられたのだという。廃虚のように残っている建物には砲塔の台座らしき物も残っているし、裏山には死体置き場もあったという。海を見渡せるその場所は、今ではホエールウォッチングの船を誘導するための、鯨の監視場所になっているとか。
お土産を持って小笠原丸に乗り込む。4日間ここに停泊していたのだ。つまり、小笠原を往復する船は1隻しかない。接岸部分は立錘の余地も無いので、後部に行って島を眺める。銅鑼がなると漁港からスタンリー船長の船が出てきた。出港から約20分、島の船は小笠原丸に伴走して走る。両方から手を振り合い名前を呼び合い、再会を祈る。森田部長の操縦する船がエンジンを止めると、乗っていた若者が次々と宙を舞って海に飛び込んだ。
「小笠原は他の観光地とは違うんです。入港で出会った島民が、お見送りまで一緒にすごします。明日は精いっぱいのお見送りをいたします」
昨晩、力強く語った森田部長の言葉がよみがえる。やがてスタンリーの船もエンジンを止め、出港から約30分後、小笠原丸は単独の航海に入った。
名刺も眩しい太陽光線。どこにでも当たり前のように咲いているハイビスカス。奇麗な海岸線に残るトーチカの跡。驚きの連続だったが、明日からは日常に戻る。25時間後は竹芝桟橋だ。
8月12日、目が覚めるが起きない。昨日の晩は、ビーチバレーボールに出た高校生を相手に呑んでいた。勿論呑んでいたのはこちらだけだが。目が覚めても起きない。どうせ竹芝桟橋につくのは午後3時半だ。何度か寝直してパンを食べ、何とかおみやげをバッグに押し込めないかと考えながら時間を過ごす。港の入り口には1時間以上前についたが、出航する船待ちで、結局接岸は3時半過ぎ。圧縮したので死ぬほど重たくなった荷物を担いで船を下りる。
新宿で解散し、僕は一目散にラーメン屋「肥後のれん」へ。島の美味しい料理は満喫したが、いまいち上品なものばかりだったので、下品な食べ物が欲しくなったのだ。半端な時間でがらがらの店でチャーシュー麺を頼む。思い切り満足。
Emiさんに電話して、途中から車に乗せてもらうことにする。この荷物を担いでいると、10分で1時間ぐらい寿命が縮む。西武柳沢でピックアップしてもらい店へ。仔猫はすでにKazuo一匹だけになっていて、すぐにカメラバッグの上に乗って寝る。到着から40分で閉店。岩渕君はすぐに旅だった。北海道に向けて。